「蚊」

蚊。

人間と生活をともにする数少ない虫、蚊。

自転車で風を切っていると、他に当たる部分はいっぱいあるだろうに、好んで口や目に入ろうとしているとしか思えない、蚊。

こいつらは、何を食糧として生きているのだろう。

人間の血ではない。血を吸うのは産卵時のメスだけである。出産という特別なイベントを乗り越えるため必要とされるのが栄養価の高い生き血というだけのことである。が、憎たらしいことこの上ない。

ともかく、血を吸って生きているのではない。蚊の中でも血を吸うものは一握り、例外中の例外だ。ならば、何を食べているのだろう。お腹の減ったときは、唐揚げのジュワっとジューシーな肉汁のにおいや、みずみずしく甘い白米の香りにフラフラっとしてしまったりするのだろうか。

強烈な唐揚げ油のにおいに誘われて、一匹の蚊が早稲田大学学生会館の中へ入ってきた。きっとこいつは腹が減ってここへやってきたのだ。そう思うことにしよう。

その、濃密なにおいにつられてやってきた蚊は、周りの光景を見て驚いた。大規模な唐揚げ臭の発生源は、弁当を広げているこの4人グループ。テーブルにはなぜか弁当が5つもある。一つは唐揚げ弁当。もう一つは唐揚げ弁当。……と、よく見たら5つともみな、唐揚げ弁当だった。一つの箱に、ごはんと唐揚げとが仕切られている唐揚げ弁当、別々の箱の唐揚げ弁当。輪ゴムできちんとおさえられている箱、フタに収まりきらず具が自己主張してる箱、とにかくいろいろあるが、全部唐揚げ弁当。こんなの、見たことない。…蚊だから当然か。おまけにテーブルの上には秤(はかり)があって、彼らはごはんやら唐揚げやらを秤にかけては、何かを記録している。食品メーカーの製造部とかなら日常の光景なのかもしれないが、学生会館のラウンジでこれは、異常な光景である。繰り返すが、蚊がどう感じたか知らないが。

少なくとも、そいつらの周りにいた人間たちは好奇の視線を向けた。4人なのに弁当5つ、しかもオール唐揚げ。そして食べずに秤。唐揚げマニアなんてのは聞いたことないけど、こいつらがそうなのかなぁ。

その不思議な行為(しかも楽しそうときた!)と周りのただならぬ空気を察した蚊は、すぐに立ち去っていった。