白く煙る霧の中にいた。否、見るにどうやら白いのは霧だけではなく今此処に居る世界自体が白いようである。

――此処は何処だ?

困惑した。一面の霧のみならず、頭上から足元に至るまで悉(ことごと)く白かった。幾分視界は開けているので霧と世界では濃淡に因る差異程度はあるようなのではあるが、目の前に広がる景色自体、凡てが白い世界など俄(にわ)かに信じられるものではなかった。ああ、でもしかし。

――夢か。

そうなのかも知れない。慥(たし)かにそれならば会得がいく。そう云えば先ほどから浮遊感のようなものに包まれているかの如き感覚が頭の中を漂っていた。然るに意識は鮮明である。謂うなれば夢心地といった処であろうか。

しかし、夢も中でこれほど意識は鮮明なのだろうか。

考えても栓のないことで、兎に角歩いてみることにした。たゆたう霞の中を唯あてもなく彷徨った。先ずは、世界を享受することだ。そう、凡ては其処から始まる。我々人間はこの世に生を受けて何の疑いもなくその世界を享受する。そして与えられた世界で懸命に生きるのである。それは地球であり、宇宙でもある。大なり小なり、それは与えられた世界であり、抜け出すことは叶わないのだろう。しかし、そう云う諦観の傍らで希望的観念も何処かにあった。たとえば、ある一定の領域があったとする。其処は人間にとっては少し歩き回れる程度のものでしかない。ところが主観を蟻に変えてみてはどうだろうか。其処は果てしなく広がる大平野に変わってしまう。しかし其処にある世界は同一のものであるから、相対的主観の相違による錯覚でしかない。ではその相対的主観の相違が、人間と大きな別の生命体にあるとしたならば……そう云った関係が連綿と続いていったならば……。即ち我々は限りなき世界に住んでいるのではあるまいか。

そこで思考を中断した。先ほどの思考と今歩み続けている白の世界の狭間に、そこはかとなく空虚感を感じたからである。

ふとその時。

視野が辛うじて届く処に何かが蠢いていたように感じた。そこばくの戦慄は禁じ得なかったが、恐る恐る近付いてみる。拭えぬ浮遊感の上に歩けど歩けど変わらぬ景色の中では、些かの距離とて進んでいるようには思えなかった。

其処には老人が唯一人佇んでいた。着物を纏っている。白髪は長く、顔全体に白い髭を蓄えていた。いかにも仙人という容(かんばせ)だ。見覚えは全くないのに、ひどく懐かしい感じがした。

老人の双リ(そうせい)は闇の如き黒を讃え、唯こちらを凝眸(ぎょうぼう)していた。そして自分もまた彼を凝視していた。そして自分もまた彼を凝視していた。時が止まったかのような錯覚を覚えた。須臾の間、双方の睨み合いは続いた。そして老人は目を逸らしたかと思うと、踵を返し白い闇の中に溶けた。

突然、目に前の景色が眩いた。

――嗚呼、ぼくも。

自分もまた、老人の如く“白の世界”に溶けてしまうのだろうか。

何故かしら強い恐怖感を感じた。

――……厭だ。

さらに情景が大きく揺らぎ、ついに気を失ってしまった。

目を覚ますと其処は既に“白の世界”ではなかった。然るに、浮遊感は未だ以て頭の中を割拠していた。

其処は深い森の中だった。木漏れ日がそこここに窺える。

とその時、森の向こうで木漏れ日とは明らかに異な光を認めた。

(なんだろう)

蹌踉(そうろう)とした足取りでそちらへと向かった。裸足であるのにも拘らず繁茂する下生え(したばえ)の感触はない。しかし、さわさわと草を踏みしめる音はしていた。

其処には、湖があった。湛(たた)えた水は実に澄んでいて、湖面はきらきらと輝き、水鳥が囀っていた。ほぼ円形の湖の周りを外円の様に草が生えていた。さらにその周りを森が囲っていた。

――桃源郷。

そんな言葉が脳裏を掠めた。そして、何故だろう湖に入りたいという衝動を覚えた。否、何か湖自体が呼んでいるのかも知れなかった。

やわらかい風が吹いた。木々が、草が、戦いでいた。風に誘われるかの様にやおら湖へと歩き出した。

右足から緩慢(ゆっくり)と入水する。水面に波紋が生じる。膝まで浸かり、ふと湖面を覗き込むと其処には……。

――其処には件の老人の姿があった。