Litera!

たなとぅす

"タナトゥス"と聞いて、「ああ、あれか」と思える人は少ないだろう。人文系の専門用語で、エロスの正反対に位置する"死への欲動"のことである。ただし、自殺願望とは違う。小学校の遠足の登山で、山頂から下を見下ろしたときに「落ちてみたい…」と思ってドキドキしたことはないだろうか。あの感覚がタナトゥスである。

さて、受験現代文ならばここから「タナトゥスを感じられないせいで現代人は…」なんて方向に持っていくのだろうが、私は違う。確かに、現代ではタナトゥスを感じる機会はそうそうない。しかし、私は都内で手軽にタナトゥスを感じられる場所を発見したのである。

場所はJR山手線池袋駅。都内でも有数の乗車率および線路数なのだが、なんとこの駅、外から線路に入れるのである。まさに灯台もと暗し。こんな大きな駅が、案外セキュリティーが甘いのである。自殺するならここだ!……違う、そういう趣旨の企画じゃない。……とにかくこの駅、線路に入れるのである。

どこから入れるのかを説明する地図を掲載すると、誰かが進入しておっちんだ時に私の責任問題になるため、あえて伏せておこう。まあ、不十分かもしれんが、駅の北側から……と言っておこう。そこから私は線路に入った。なんでこんなに警備が手薄なのか。周りを見回しても怪しい人物はいない。……いや、私が怪しいのか。

北側の数本の線路は現在使われていない。よってここなら入っても安全だ。そう考えて私は線路に足を踏み入れた。そして線路の上をぎこちなく歩き始めた。

「線路の上を歩く少年…、どっかの映画みたい…」、そんなことを考える余裕は私にはなかった。怖え。なんだか知んねーけど怖え。この線路に電車が乗り込んでくる確率はゼロだ。それに、少々歩きにくいが転ぶほどじゃない。ここは絶対安全だ。それが解っているのに何故か恐怖心が私の心を取り巻いたのである。そしてちょっとドキドキする。……楽しい。なんか楽しいぞ! なんだこの感じは。……そうだ、あれだ。山に登ったときのあれだ。怖いけど楽しい。こわたの。……語呂いいな。私は黒い線路の上を、もの凄いニヤけ面で歩いていったのだった。完璧に不審人物だ(もはや変態)。

電車と比べるとなんとも小さく見える線路。だが実際上に乗ってみると思いのほか大きい。そしてそこにはタナトゥスが漂っている。この大都会でもタナトゥスは感じられるのである。生活に嫌気がさしたらここに行ってみるといいだろう。人生に嫌気がさしたら……、もうちょい向こうまで行って引かれてこい(山手線に)。その時くれぐれも私の名前を出さないよーに。……いや、ほんと、責任問題になるから。

私の鬱対策

私には鬱の気がある。私は、思い悩んだ時、自分の殻に閉じこもってしまう体質を持っている。そんな時私は、この世に自分が存在しているという事象にそこはかとなく違和感を覚える。その思いは次第に肥大化し、恰も自分がこの世界から剥落してしまうのではないかという不安感へと変容していってしまうのだ。そうなると、その非現実的な懸念に目を背けんが為に、私は、この世を拒絶する。単純な話、己が家に閉じこもってしまうのだ。外界を厭うのだ。

私は斯様な状態を、いつでも打破したいと思っている。そんな中私は、この鬱に対する打開策を幾つかではあるが、捻出してきた。これを文章という形として表すことで、自分自身を確認すると共に、この文章に目を通していただいている奇特な方の中に、私と類似した精神構造を持つ人があらば、是非、この鬱対策の心の持ち様――この「鬱をもたらしている事象及び鬱である己の精神、それらに対する対策概念」をお試しいただけたらと思う。

これは私の中に於ける対処法で、読者の方にこの処方概念が通じるにしても、まだまだ他にも、対策概念が存在するのだということは、はじめに断っておこう。


類は友を呼ぶ、とはよく言ったもので私の周りには、同じような精神構造をもった人間が幾人もいる。そして、彼らは皆「完璧主義者的側面」を己の中に有しているのである。側面と言い表したのは、その"完璧主義"の表出の仕方に著しい偏りが出てしまうからである。すなわち、鬱を内包した精神の持ち主は、ともするとその完璧主義を人間関係に向けがちである、と言うことだ。「こうでなくてはならない」という異常な迄の拘泥が、人との衝突へと繋がり、やがて「何故わかり合えぬのか」という思いが結実し、知らぬ間に鬱の魔境へと迷い込んでしまうのである。

ここで必要となってくるのは、許容である。

人間関係、こと友人関係に於いて、重要なのはこの「許容」であると私は考えるのだ。これが、この場合に於いての対策概念である。蓋し信頼関係と言うものは、『分かり合うことではなく、理解し合うということ』だ。「私はAと言う考え方をもっている。彼または彼女はBという考え方を持っている」。こんな時、Aという考え方を相手に押し付けるのではなく、Bという考えを持った相手を、そのBという考え方がわからなくても、認めてあげること、それ即ち信頼関係であると私は考えるのである。「まあ、いいか」と思う気持ちが肝要なのである。今後若し、上記の様な状態で諍いが起こってしまった場合、そしてその相手に対して、怒りこそすれ悪意は抱いていない場合この魔法の言葉を唱えて、その諍いを解消してほしい。

「まあいいか」

却説(さて)、次に鬱の原因に対する対策概念でなく、鬱になってしまった己が精神に対する対策概念だ。これには2つ程私の中に処方箋が存在する。先ず、一つ目は、「こんなに苦しいのは自分だけではない」という考え、今ひとつは、「ああ苦しい。きっと自分は世界で一番苦しんでいる人間だ」という考えだ。前者の方は、別段説明する必要はないだろう。しかし後者の文章に対して、首を傾けた人は少なくないだろう。しかし、考えていただきたい。「私は、一番苦しんでいる」という思いは、他の者はこれほど悩みはせんだろう、という他者に対する優越感も表裏一体の思いとして存在しているのである。仰、この世の何処かでは、己の行いとは無関係に拷問を受けている者もいるかも知れぬのだ。だから、こういった自由な主張を論うことのできる私や、それを読む事の能う読者の皆様も、「世の中で一番苦しい」等ということはあり得ないのだと思う。だがしかし、人間考え、思い込むことは出来る。だから、若し、これを読んでいるあなたが、どうにも苦しい状態にある時、変な言い方だが、息抜きに「自分は、一番苦しいのだ」と思うことをしてみるのも良いのではなかろうか、とも思う。


そんな模索を幾度も続け、いつかは自分なりの光明を探し出して、いつか自分自身に笑いかけて上げられるようなデカイ人間になりたいものである。

その時、私はきっと自然と心に「まあいいか」を有しているのであろう。

そして、私はまた対策概念の模索に入るのであった。

茜屋珈琲店

地下鉄東西線早稲田駅を下り、文キャンに向かう途中にある、小さな喫茶店、それが茜屋珈琲店である。乱雑に立ち並ぶ各種チェーン店の間に、明治時代を思わせるような古めかしい看板。今時珍しい焦げ茶色の分厚い木の板に、白くて太い文字にて店名が綴ってある。……しかもその看板も剥げ気味。中の様子をうかがいたいところだが、あいにくそこには地下へと続く階段があるだけ。……あやしい。そして値段がわからない(重大)! 珈琲なんぞ所詮高くとも数百円かそこらなのだが、……まあ、その辺は大学生の懐事情を察していただきたいと思う。

狭い階段を下り、入り口を開ける。店内は明らかに時代に取り残された風貌である。だが、そこにこの店の魅力がある。

浮世絵、色とりどりの珈琲かっぷ、古びた本、人形、ざくろジュース(未開封)、その他小物。ハッキリ言って、内装に統一性はない。だがその全てが妙にレトロなのである。BGMが流れてくる方に目をやると、なんと木の板にスピーカーが3つほど付いているやつ(描写下手すぎ)! 恐らく数十年前には生産をうち切られただろう歴史の遺物(言い過ぎ)である。そして椅子。……古い(センスが)。大隈講堂にあっても不思議はないような古さである(センスの)。

さあ、旧字体や旧仮名遣ひに独特の色気を感じてしまふ貴方(右翼以外)! もしくはさういう女の子を好きになってしまった貴男! 是非この店に行かれたし。洒落っ気のない早稲田の町に開かれた、明治のハイカラさん達が訪れたような異空間で飲む珈琲はなかなかのものかと存じます。

さて、肝心の味(大切)とお値段(最重要)のことですが…。ぶれんど珈琲が五百円。まぁ、そのぐらいの価値はあるのではないかと思いますが、なんせ時代が時代。すぐ傍の某チェーン店では白米の上に卵まみれの牛肉を乗せた食べ物が290円で売られている時代に、珈琲に五百円も払うのは流石に気が引ける方もおられるでしょう。そんな貴方には『つめたいここあ』がおすすめ。だって、ココアの相場なんて普通はあまり知りませんから。それに、ちょっと気の利いた装いで出てきますし(詳しくは秘密です)。

余談ですが、アーティスティックに刈り込まれたご主人のヒゲにも注目です。

尚、最後に一言断っておきますが、私は茜屋から金を貰って宣伝文を書いているわけではありません(貰いたいけど)。あしからず。

小物礼賛

小者…すこぶるイメージの悪い言葉である。何というか、「お前は小者だ」と言われると、存在価値がないと言われたかのような不快感をもよおす。まあ、実際私は小者であり存在価値なんかほとんどないわけだから、的確な発言であることは間違いないのだが。

しかし考えてもみよう。世の中に、存在価値のある"大物"なんてそうそういるものではない。圧倒的多数は小者なのである。私も、恐らく貴方も、貴方の家族も、みんな小者である(無礼)。だとしたら、別に小者であることを恥じることなどないだろう。いやむしろ、小者こそ良けれ、だ。

だいたい、大物大物と周りからチヤホヤされるような輩は始末が悪い。初めは「そんなことないッスよ…」と謙虚に構えていたとしても、チヤホヤが続くとだんだんその気になってしまう。周囲の人間の価値観の平均値がいわゆる"普通"として我々の脳裏にインプットされるのだから、まあ自然なことだ。ある日周りの人が一斉に貴方に向かって「気が利くね」なんて言い出したら、2週間もたたない内に「私って気が利くのかも…」などと勘違いを始めるだろう。それと同じである。大物大物と言われるうちに、人は自分を本当に大物だと思いこんでしまうのである。

それが本当に大物ならば、私も文句は言わない。世の中には確かに大物と呼んでしかるべき希少種が存在する。だが、さっきも言ったが、地表のほとんどの面積を覆っているのは小者の大群である。大物と噂されている人物が実は小者だったなんて話も、実はザラなのである(某大物プロデューサーK氏など)。

さてその"偽大物"であるが、こいつの始末の悪さと言ったらない。既にしっかり"その気"になっているから、ついつい慢心してしまう。そして"大物の名に恥じぬ働き"を目指してしまう。これだ。これがマズイ。約六十億の小者が最大限の努力をして回しているのが現在の地球である。そんな中、慢心した小者がいたらどうなるだろう。役に立たぬこと限りなし、だ。しかもそいつは小者の身にして"大物の名に恥じぬ働き"を目論んでいるときた。雀がフクロウのマネをしてネズミを獲ろうとするようなものである。返り討ちじゃ。ソニンが松浦亜弥の…(以下略)。返り討ちじゃ。要するに、"偽大物"は小者程度の働きすらままならないわけである。

そいつが反省してくれればまだいい。だが、なまじ自分を大物だと思っているせいで、脳裏に浮かぶのは"こんな筈じゃない"もしくは"本調子じゃない"という言葉である。反省しろ、反省。globeもう古いぞ! …いや、まあ、とにかくチヤホヤという洗脳状態に置かれているため、正常な思考に戻ることすら困難なのだ。そういった輩は失敗に失敗を重ね、堕ちてゆくことになる。

思うに、"偽大物"になった時点でその人はもはや廃人だ。もう戻れない。だったら、小者である我々は、いつまでも身分をわきまえ、末永くちまちまと暮らしていけばいいぢゃないか。本当に世界を動かしているのは、大物ではなく小物なのだ。小者万歳、だ。……大物になりたいなぁ。