プロペラ機の美学

プロペラ機はプロペラ機でも、戦闘機のことである。もちろん、現在プロペラ戦闘機などどこの国でも使われてはいない。それでも、自分同様ロマンを感じる人はいるらしい。その魅力はやはり現代の戦闘機と違って、何もかも機械任せというわけに行かないところだろう。あの時代、自動追尾システム、レーダー等々、現代の戦闘機には不可欠と言われるものがほとんど無かった。それをプロペラ機のパイロットはどう補ったか? 自分の感覚でである。肉眼で相手を見、研ぎ澄まされた集中力を持って時速五、六百キロで動く相手を機関銃で撃ち落す。あの時代の戦いは現代の戦いよりも乗り手の腕っぷしが重視されていた。つまり肉弾戦に近い性質を持っていたと言えよう。しかし、そういった中でも、乗り手に好まれた、いわゆる名機が存在し、それに遭遇した相手を恐怖に陥れてきたのである。そこでこの場を借りて、特に第二次世界大戦期に大空を席巻した各国の名機を紹介しよう。

B‐29

正式名称B29スーパーフライングフォートレス。大戦末期に日本各地に爆撃を行ったあのB‐29である。また、原爆を投下した機体であることも有名である。同機の特に優れた点は、航続距離の長さと、爆弾搭載量の多さであり、実に6トン近くの爆弾を搭載できた。また高い場所での飛行能力にも優れ、日本の戦闘機はほとんどこれを補足することができなかった。同機の正式名称を日本語に訳すと「超空の要塞」となる。その名にふさわしく、防弾もしっかりしており、旋回機銃の死角はないに等しい。同機を撃墜に持ち込むのは困難を極めた。

紫電・紫電改

正式名称川西N1K2‐紫電・紫電改。日本における大戦末期の優秀機である。1943年7月に紫電の試作機4機が完成。後に量産が始まり、1944年に太平洋地域の戦闘に投入された。全部で1007機が生産された。その後、設計の見直しがなされ、より空力性能の良い「紫電改」が計画された。この紫電改には、終戦後アメリカがこれを持ち帰り飛行させてみたところ、その性能の高さに驚いたという逸話がある。ではなぜ実戦においてその性能を発揮しなかったか。当時の日本にはハイオクガソリンがなく、紫電改に限らず、どの戦闘機も本来の性能を引き出せなかったのである。実際、紫電改は日本軍の記録では最高時速590キロとあったが、アメリカでの飛行では650キロを超えたとも言われている。紫電改が登場する頃には本土空襲などによって生産能力が低下しており、その生産は428機にとどまり、活躍する間もなく、終戦を迎えた。

メッサーシュミット

正式名称メッサーシュシュミットbf109(量産が始まると目的やタイプを示すアルファベットがつく)。ドイツの傑作機として有名な同機は1935年9月に初飛行に成功。初の量産型bf109b‐1はスペイン戦線(スペインアサーニャ政権とポルトガル、ドイツ、イタリアに援助されたフランコ将軍との間に起きた内乱。36〜39年)に投入された。C、D型と続き、E型は20ミリ機関砲2門、7.9ミリ機関銃二門を装備していた。しかし、イギリスとの空中戦で多くの機体が撃墜され、戦局が変わっていくにつれて、その役割は戦闘機から迎撃機へと変わっていった。それに続いて、G型は1942年にロシアや北アフリカ戦線(主にイギリス軍と交戦、43年5月に敗北)に投入された後、ドイツの降伏まであらゆる局面で使用された。